PR

本広告は、一定期間更新の無いブログにのみ表示されます。
ブログ更新が行われると本広告は非表示となります。

  

Posted by つくばちゃんねるブログ at

2015年04月14日

Q.将来の夢や目標がころころ変わるのはいけないことですか?


塾やってます、岡本です。
(大変ご無沙汰です。失礼致しました…)

学生からよく聞く質問。最近も聞かれました。




これは別に学生だけじゃないと思う。

「これが自分の本当にやりたかったことなのか?」

「これがゴールでいいのか・・・?」

そうやって大人も悩んでる。

でも、学生よりはいろんなことに忙しいから、

日常に忙殺されるという理由(言い訳)から将来をあえて見ていないだけかもしれない。




結論から言うと、別に「いけなくない」。

というか、良いことでも悪いことでもないと思う。

変わっても変わらなくても、どっちでもいいんじゃない?という感じか。




(最近は少しマシなようだけども、それでも)世間では、

同じことをずっとやり続けることが美徳とされるフシがあるから

やりたいことがコロコロ変わっていると、

なーんか引け目を感じている人が多い気がする。

確かに、すべてを途中で放棄して、周りに何度も迷惑をかけるというのは

社会で生きていくうえで好ましいとは言えないけれども、

別に人様に多大なる迷惑をかけてないなら、

自分の将来の夢や目標が変わろうが変わるまいが、

どっちだっていいと思う。




そもそも、「夢や目標を1つに絞る」必要があるのはなぜだろ?

1つの理想を追い求めるのがいい、そういうのも

何か「常識」という見えない圧力を受けてるように感じてならない。




ただ、人生は有限だから、あまりにたくさんのものに手を出し過ぎる、

目標が多すぎるのってのもどうかとは思う。

でかい目標なんかは一生涯をかけて実現できるかどうかだもんね。

そう考えると、どこかで「選択と集中」すべきかもしれない。

でも、しない方が色んな世界が見えるかもしれないからね。

やっぱ一概には良し悪しは決められない(笑)




大きな理想の夢や目標を求めている人、でも、

やりたいことがコロコロ変わってしまう人に

一つアドバイスするとすれば、

「やりたいことを抽象化してみよう」ってことだ。




例えば。分かりやすいように職業の話をしよう。

あなたは当初、「医師」に憧れた。

でも次第にその目標も色褪せ、今度は「消防士」に。

でもやっぱりそれも違うかな?やっぱり「農家」か?

なんて具合に将来の職業像が二転三転したとき、

多くの人は「なんで自分には『これだ!』って目標が決まらないの?」

と自己嫌悪に陥りがちだが、





そんな暇があるなら、

自分がなぜ、それらの職業に憧れたのかを考えたほうがいい。

なぜなら、それらには「自分にとって理想の職業」を見つける

ヒントが隠されているからだ。

たとえ将来の理想像が二転三転したとしても、

その当時は本当にそれになりたかったわけだし、

その気持ちに偽りはないわけだからね。




あなたが今まで憧れた職業の「共通項」を探してみるのだ。

前例でいうと、

あなたは

「生命の尊厳を感じながら、それに触れて生きる」ことが

やりたいのかもしれない。





そうやって抽象化して、「共通項」を見つけることができれば

あなたはあなた自身をより理解できるし、

あなたがあなた自身の人生に何を望んでいるのかが

分かるかもしれない。

結果、おそらく紆余曲折を経るものの自分の理想に気づけるんじゃないかと思う。




要は、大切なのは

周りばかりを気にせず、自分の頭で思考することだ。

流されず、自分の気持ちに正直になって、

自分と向き合う十分な時間が取れれば、

将来の夢や目標についてもハッキリしてくるんじゃなかろうか。





最後にもう一度だけ。

夢や目標がころころ変わるのがいけない、

のではなくて、

夢や目標がころころ変わることを

なんとも思わず、あるいは嫌悪するのがいけないということ。

ある意味、

自分本位に生きて欲しい。




  
  • LINEで送る


2014年12月02日

親から矯正された子どもの行く末

塾やってます、岡本です。

ほぼ例外なく、子を思わない親はいないかと思いますが、
(「ほぼ」や「思います」と言わなければいけないのが何とも悲しいですが)

みなさん、力み過ぎちゃうんでしょうね。

子を愛することと、子に任せることは矛盾しないんですけどね。

今日はそんな話を。





将来困らないように、安定した職種に就かせてあげたい。


そのためにはレベルの高い大学に入らないと。


そのためにはレベルの高い高校に入らないと。


そのためには勉強時間をもっと増やさないと。


そのためにも今のうちから塾に通わせて…。





子を想う親の愛情は、いつの世も微笑ましい。


先の見えない子どもを導いてあげてるんだもんね。




言い方は悪いけど、教育は洗脳に近い。


子どもの将来は、子ども自身が決めているようで


じつは親の影響がかなり大きい。



例えば家庭で、子どもが小さいときから


「お医者さんになるのが一番いい。

 お医者さんはすごい。あんな充実した仕事はない。

 医者って本当にカッコイイ。絶対医者になるべきだ。」


なんて話を聞いて育った子どもの、将来の夢は「お医者さん」だろう。


少なくとも、医者に対してネガティブな評価は持たない。





ただし。


子どもってもんはそんな単純じゃない。


家庭から大きな影響を受けるのと同じように、


教育機関や周りの集団の影響もダイレクトに受ける。


したがって、親の「思惑に反して」成長することなんていくらでもあるわけだ。




岡本は、親が抱く理想像に


子どもが近づくよう「仕向ける」ことに一片の反論もない。


ただし。


子どもに理想像を「押し付ける」のはいかがなもんか。


当然、強制力が必要な場面もある。


でも、子どもが嫌がること、まったくその気じゃないことを


有無をいわさず強引させることに疑問を抱かずにはいられない。





残念ながら、後者の親御さんは多い。


「今は」いいかもしれない。


本人の想いは置くとして、


子どもが言いなり通り行動してくれてる(ように見える)もんね。


ただし。


それじゃ続かない。志半ばで頓挫してしまうだろう。




「押し付けられた」子の行く末はどうなるか。


大きく分けて2つに分かれるかと。


1つは、親への溜め込んだ反発心が爆発してしまうケース。


もう1つは、自分の考え・主張を持たない骨抜き人間になってしまうケース。



詳しくはここでは置くが、


そのどちらのケースも、あまり良い方向とは言えないだろう。




何度も言うようだが、子どもの将来を親が決めること自体は否定しない。


問題なのはその方法だ。


強引な「押し付け」ではなく、「仕向ける」のが大事。


強制的ではなく、自発的に目標を目指すように。




モノは言い様、コトはやり様、である。

  
  • LINEで送る


2014年11月18日

どれだけ我慢できるか

塾やってます、岡本です。

教育って、ずっと我慢なんすよね。今日はそんなお話を。










小さい女の子がペットボトルのジュースを買ってもらった。



彼女はふたを一生懸命あけようとするが



どうにもこうにも、かたくてなかなかキャップが回らない。



見かねたお母さんが、彼女の手からペットボトルをそっと取り上げ



キャップを取り、女の子に手渡す。



女の子は笑顔でジュースを口にする。







このよくありがちなシチュエーション。



もちろん状況にも依るけれど、岡本的には、この母親の優しさは不要だと思う。



その優しい心があるのなら、



ぜひとも「何もしない」であげてほしい。



子どもが試行錯誤の末にキャップを開けることに成功するまで


じっと黙っていてほしい。


そして成功した後に、オーバーすぎるくらいに褒めてあげて欲しい。





「主体性」を培うのと、「成功体験」を獲得するってことだよね。


多くの人がそのようにすべきだ、


そうした方が子どもにとっていいのかもしれないと感じているのかもしれない。



でも事実、できない人が圧倒的に多い。



なぜか。



我慢できないからだ。



子どもがキャップを開けるのに、いったいどれくらいの時間がかかるのか分からない。



自分が開ければ、2秒でけりがつく。


だったら自分で開けたほうが双方にとって良いんじゃないかって思ってしまう。





教育でも同じ。



「何でそれが分かんねーんだ!」って突っ込みたくなるような問題に



ああでもないこうでもないと正答に近づいたり遠ざかったり。



じれったくてじれったくて、



ついつい答えやヒントを言いたくなる。



でもそこで我慢しないと、



子どもの成長にとってとってもとっても大事な



考える場を奪いかねない。





子どもでも、生徒でも、部下でも後輩でも。



うわべでなく、真の意味で彼ら・彼女らを成長させれるかどうかは、



大人、先生、上司や先輩はどれだけ我慢できるかにかかっている。  
  • LINEで送る


2014年11月11日

目的は必ずしも必要か?

塾やってます、岡本です。

目的をもって取り組むのはmustである、

その一方で、

目的を持たないというのもまた一興なのかもしれません、

今日はそんな話を。





こないだ、梅園校で授業していたら。

授業後に、クラスの子がおもむろに問題集を取り出して。


「あれどしたん?何してんの?」





「○○の問題です。」





「ん?宿題?」





「うんうん、ちがう。」





(まったくやる必要性のないものだったので)





「え?え?じゃあ、何でやってんの?」






「(その質問に怪訝そうに)…え?おもしろいから。」






おもしろいから、か…。






いやはや。


楽しいから。おもしろいから。やりたいから。


目的や理由なんてややこしいもの抜きにした、


それらの純粋な気持ちってのは、


非常に大切なことであり、


また、本質でもあるのだけれども。


環境のせいか、使命のせいか。


人はどうしても、それらを忘れてしまう。









自分がやりたいから、やり始めたはずなのに。




おもしろそうだと思ったから、続けていたはずなのに。




自分の進みたい道だと、そう信じていたはずなのに。







いつの間にか、楽しめなくなる。



いつの間にか、おもしろくなくなる。



いつの間にか、迷いが生じる。






いつの間にか、苦痛になる…。







そんなとき。




「何でやってるの?」


そう質問されたら。






そんなときにかぎって、


こう答えるだろう。



「誰か」のためだとか、



「社会」のためだとか、



「自分の成長」のためだとか。







それらの言葉にウソはないのかもしれない。


でも、


楽しめていない、迷っている自分には、


自分の発する(あるいは「何か」によって自分が発するよう仕向けられる)


「○○のため」という言葉が、


重く、ずっしりと重くのしかかる。





そして、


さらに苦痛となる。








「初心に戻って」ってのは。


あの頃の熱意、あの頃の大きな志を思い出せ!


の他に。



あの頃の楽しんでた気持ちを思い出せ!


あの頃の面白くってしかたなかった気持ちを思い出せ!


もっと純粋に、もっと単純に。


お前の「始原的な」感情を呼び起こすのだ!ってね。



そういう意味でもあるんでしょ。







世の中、


もっと楽しめるんちゃう?


おもろいんちゃう?


たまには目的だの何だのとかたっ苦しいものは抜きにして。


それこそ意味がないようなことに一心不乱になるのも


何かを取り戻す動機になるかもしれないね。


  
  • LINEで送る


2014年11月04日

一流でもコーチが必要な理由


塾やってます、岡本です。

メンターがほしい…切実に思ってます。

今日はそんな話を。


最近、深夜にランニングしてるのね。


こないだも一人で走ってて。


どういうわけか、一人でね。


限界に挑戦しよう!ってなって。


岡本にとってはかなりのペースで


近くの公園を3周(5kmほど)しようと。






それはもう、きつくて。笑


途中で諦めそうになったけど、なんとか走りきって。


えずきながら、泣きそうになりながら、


一人でガッツポーズして喜んでるっていう、


もはや不審者にしか見えないような、


そんなちょっと危ない感じになってた。笑






岡本よ、よくぞ走った。最後までよく諦めなかった!


ダウンしながら自分を褒めてたときに、


ふと、ね。


思ったわけよ。







限界目前の、


吐くか吐かないかって状態で


ゴールが見えてきた、あと少しだってときに、


誰かに、


「はーい、もう1周!」


って言われたら、どうなるんやろかと。









あの野郎…覚えとけよ!!!!クソ野郎がっ!!!


って、間違いなくなるやろなと。笑







でも、そう思いながらも、


じっさい、走れちゃう気がするんだよねー。。







それが、


一流のアスリートでも、


コーチが必要な理由なんだと思う。








「自分」ってのは本当に弱いもので。


限界のちょっと前で、


「もうこれがお前の限界なんだ!」


って、言って聞かない。


で、当の本人も


それが限界だと思ってしまう。





思ってしまうんだけれども。


そこは実は限界じゃないんだよねー。







それに気づかせてくれるのが、


先生であったり、

コーチであったり、

先輩であったり、

他人であったりするわけだ。






しんどいし辛いし、


「もうこれが、俺の限界なんだよ!」


って思ってる自分にとっては、


非常に非情に感じるかもしれない。


殺意すらも浮かぶだろうし…笑








でも。


彼(女)らの存在があってこそ。


きみはきみが知ってるきみよりも。


「更に上」にいけるんだろうね。





彼(女)らの存在なくして。


自分の想像を上回る世界は、見れないんだろうね。









きみの「ほんとの」限界を知ってる人こそ、


きみにとって最高の指導者なんだろうね。  
  • LINEで送る


2014年10月28日

いつまでたっても変われない原因


塾やってます、岡本です。

言うのは易し、とはよく言ったもので、

いつまで経っても変われないのが世の常であって。

今日はそんな話を。




啓発本やセミナーを聴いて。



感動的な場面に出会ったとき。



他人の努力・行動に衝撃を受けたとき。



「情熱大陸」や「仕事の流儀」を見たとき。










多くの人が、


今の自分を省みて


「このままではダメだ…自分も頑張らないと!」


「こんな自分ではダメだ…よし!変わろう!」


そう心に決めるわけだ。















そして。多くの人が変われない。


ただ今までどおりの生活を送る。


何も変わらぬ日々を過ごすだけ…。






なぜこうなるんだろう?


そのとき見て、聴いて、体験して…


結果、感じた気持ち、


変わろうとする気持ちに偽りはないはずだ。


少なくとも、その瞬間は、


自分を変えようと、全力で思ってるはずだ。


それなのに、変われない。





人にも慣性の法則が成り立つ、


以前そう書いたが、


まさにその法則が変化を拒絶するからだ。






変わってやる!




そう決意したとき、


実は既に変わっている部分がある。


そう、自分の内面だ。


自分の「心」と言うべきか。


「心」はやる気満々なわけだ。





ところが。


人の「心」ってのは、得てして。


熱しやすく、冷めやすい。


つまりは「環境依存型」なのだ。


結果、どうなるか。




テレビを見ながら、


「この人…なんてすごいんだ…!

 俺もこんな人間になりたい!!」


そう感じているときってのは、




テレビの出演者と自分の「心」が


1:1でつながっている。


環境依存型である「心」は、


熱しやすい「心」は、


それはもう、


変わろうとする気MAXなわけ。






ところが。


テレビが終わるとどうだろう?


出演者との「心」の対話(?)が途切れる。


ふと気づけば、


アツい気持ちを持つのは、自分の「心」だけで、


自分の部屋も、

自分の家族も、

自分の境遇も、

自分の身体も。


今までと何も変わらないままである。


すると、


環境依存型である「心」は、


冷めやすい「心」は、


それはもう、


「ん?何かありましたっけ?」くらいの勢いで


今までどおりの生活を続ける気MAXなわけで。







そんなこんなで。






今までとまったく同じ生活が、


無事に(?)始まるわけだ。










変わりたいのなら。


環境依存型の「心」を、


冷めやすい「心」を、



環境に依存されないように、


いつまでも熱し続けるには、


どうすればいいのか。


それはね。








無理!





だから、環境を変えるべきなんだ。


「心」がアツいうちに、


人に話してみるとか、


メモしてみるとか、


空間を変えてみるとか、


生活を変えてみるとか。


少しでいいから、


何かアクションを起こして、


自分の周囲に「火種」を置いておくのだ。


その「火種」が、


冷めやすい「心」を再燃させるはずだ。






「心」の冷めやすさと言ったら。


それはもう水銀レベルだ。
(ってわかりにくい?)


「俺のハートはこんなにアツいんだ!!

 このアツさはかなり続くぜ!!」


なーんて、「火種」を作らずに、


そのまま寝ちゃったら終わりだぜ?


「心」はケロッと元通りだ。







アツい気持ち、変わろうとする気持ち。


これ以上、無駄にしちゃあいけないぜ?  
  • LINEで送る


2014年10月21日

「自分らしさ」、「個性」という甘え

塾やってます、岡本です。


自分らしく生きる、だの個性を大切に、だの。

声高に叫ばれるようになって久しいですが、というお話。








「個性」を発揮するのはいいぜ?


「自分らしく」生きるってのもいい。






でも、「個性」や「自分らしさ」を。




できないときの言い訳にしてないか?


自分の欠点を覆い隠すために使っていないか?






そんなもんは「個性」でもなければ、


「自分らしさ」でもない。






それは単なる甘えだ。









「自分らしさ」ってのは、


自分を見つめ、そして高めていくことで


はじめて磨かれるもんであって、


現実を見つめ、自分を客観視する努力なしに、


「自分らしさ」など生まれない。






「自分らしさ」とは、


自分を甘やかすこと、過保護にするのではなく、


自分の欠点に蓋をして、比較的得意な分野だけを取り上げるのではなく、


自分を見つめ、


自分を大切に、


自分を最大限発揮することだろう。







「自分らしく」生きよう。  
  • LINEで送る


2014年10月14日

アイドルになるには「アイドル力」だけで無理、だけど「アイドル力」が足りなくてもアイドルにはなれる。

どうも、塾やってます、岡本です。



先日、某アイドルグループのライブDVDを見る機会があった。



はじめて見たけど、ものすごい人気なんだねー…



予想をはるかに上回る規模にびっくり。



ものすごい盛り上がり…ではあったけども、



歌、上手くない…よね?



失礼な言い方ではあるが、



バックコーラスとして



束の間出演していた人たちの方がはるかに上手だった。








が、しかし。


何十万、何百万人を魅了するのは、


バックコーラスの人たちではなく。


紛れもなく彼女たちアイドルなわけで。






なんか面白いよね。


アイドルになりたいって人で、


今人気のアイドルよりも


顔もスタイルも歌唱力もある人間は


いっぱいいるはずなわけで。



逆に、


顔もそこそこスタイルもそこそこ、


歌唱力もそこそこの女の子が、


みんなのアイドルになることだってある。


(ん?AKBはこれがコンセプトだっけ?)





とにかく。


大事なのは


ピュアな「アイドル」力だけじゃないってことだ。


その人しか持ってない個性だったり、


相手を魅了する話し方・表情だったり、


タイミング・時流を読む力だったり


コネクションだったり…






アイドルになりたきゃ、


「アイドル」力だけ鍛えてもだめってことだ。


色んなスキルを、


日常のなかから学ばなければいけない。


そして「アイドルアンテナ」を常に自分に張り巡らせるわけだ。


アイドルになれそうな情報のかけら1つも落とさぬよう、タイミングを失わないよう。




それでも、自分の力だけでは無理かもしれない。


ひょっとしたら運がいるのかもしれない。


ただ、運というやつは、


全力で頑張ってる人間に落っこちてくるもんだからね。







何にせよ、


アイドルになるのは至難の業だ。


ただし。


それは裏を返せば、


「アイドル」力が足りなくても、


アイドルになれる可能性はあるってことだよね。


たとえ歌が下手くそだとしても。口パクがバレてもなお人気を博する人間を知っているし。


アイドルの形を、一般論で決め付けるべきではない。


自分が持ってるものを究極的に研ぎ澄ませて、アイドル目指せばいい。


夢を諦めるのは、


まだ早いんじゃないかね。


もちろんこれはアイドルだけでなく、どんなことにもあてはまるだろう。  
  • LINEで送る


2014年10月07日

できる人間は下手を楽しむ


塾やってます、岡本です。


自分がはじめてやることって、うまいこといかずに恥ずかしいんですよね…


今日はそんな話を。








スポーツでも学問でも何でもいい。



新しいことにチャレンジするとしよう。



きみはまったくの初心者だ。



何も分からないし、何一つうまくできない。



周りにはすでにチャレンジし、習得してる人間がいる。



彼(女)らはとても上手だ。





そんなとき、



得てして「できない奴」ってのは、



自分の下手さを隠そうとする。



周りの目を気にして、



少しでも上手く見せようと取り繕うことに



全力を尽くすわけだ。



失敗するのがこわいから、



中途半端にしかチャレンジしない。



そのせいで、



チャレンジしたことが一向に習得できない。



上達するのが遅い。



しまいには自分には無理だと諦める。








一方、「できる奴」ってのは、



下手くそであることを隠さない。



初心者なんだから下手くそなのは当然だろう、



そう言わんばかりの態度で、



積極的にチャレンジし続ける。



周りの目なんかまったく気にせず、



自分が上達するために全力を尽くすわけだ。



だから、


たとえカッコ悪くても基礎を反復しようとするし、



周りからの助言を求め、そのとおりにやってみようとする。



何より、チャレンジを楽しむ。



結果、



上達がはやい。







思うに、



新しいことへのチャレンジを億劫がる人は



周りの目を気にしすぎなんじゃないだろうか。







周りの目なんか気にせずさ、



たとえ笑われようとも蔑まれようと、



そんな雑音ふっとばして、



自分のチャレンジだけに集中すればいい。



誰だってやり始めは初心者なんだから。



何も気にする必要なんかないように思うが。



自分の下手さを自覚して、



そこからの上達っぷりを楽しめばいいさ。  
  • LINEで送る


2014年09月30日

サザエさんよりもマスオさんの方がある意味厳しい


ご飯ですよの人に似てると言われるので、

おそらくマスオさんとも外見が似てるんだと思います、

塾やってます、岡本です。










カツオが「勤勉」とは程遠い行動をとったとき、



「コラっ!カツオ!!」と



姉のサザエは、きまって怒鳴りつける。



そんな激しい剣幕のサザエを、



「まぁまぁサザエ。少しはカツオくんの

 やりたいようにやらせてあげないかい?」



と仏のマスオさんが制止に入る。











もう何年もサザエさんを見たことがないし、



そんなシーンがあったかどうかも定かではないが、



サザエとマスオさんは、



そんな「動」と「静」の関係だったように記憶している。



表層だけ見れば、



怒りん坊のサザエさんよりも、



カツオを擁護するマスオさんの方が



優しいように感じる(顔を見れば一目瞭然)。



でも、



マスオさんはサザエよりも



カツオに対して、厳しさをもって接していると



ある意味捉えることもできる。









「好きなようにさせてあげる」、



その言葉の背後には、



「その代わり、すべての責任は取れよ」



という、裏のメッセージが込められているわけだ。



一見甘やかしているようで



実は、失敗して、自ら学べという厳しさを併せ持っている。



そう考えると、



ガミガミ言うのは問題だが、



その都度その都度、



間違いや失敗を犯す前に



カツオを戒めるサザエの方が



実は親切なのかもしれない。






とにかく(睡魔に襲われたのでまとめに入るとする笑)、



教育には



ミスや失敗を未然に防いでやるサザエ的な対応と、



ミスや失敗することを承知で



口を挟まないマスオ的な対応、



その双方が必要になる。



両者にはそれぞれ、適切なタイミングがあり、



そのタイミングを意識し、接し方を変えることで



教育される側は大いに成長する。



ところがしかし、



多くの指導者が



その接し方をするタイミングを誤り、



逆に成長を阻害させるケースが多いように思う。



マスオ的な態度を取り、



好きなようにさせたうえで、



その結果に対してまでも責任をとってあげるような



ただの「甘やかし」になってしまっていることも。







初期の段階では、



サザエ的な態度を取って、



どちらかというと手取り足取り指導し、



ある程度一人でできるようになったり、



失敗に耐えうる精神力が備われば



マスオ的な接し方に切り替える等が望ましい。



くれぐれも、過保護や甘やかしにならぬように



注意することが大事かと思う。  
  • LINEで送る


2014年09月23日

意外と自分で考えなきゃいけないことは、少ない

これは革命や!と思ったアイデアが

もうすでに世の中に出回ってること多いっすよね…

塾やってます、岡本です。







実は自分で考えなきゃいけないことって、かなり少ない。



だって、あらゆることに「前例」はあるから。







自分が悩んでいるように、


誰かが悩んでいた・悩んでいるし、


自分が問題だと思っているように、


誰かが問題たと思っていた・思っているし、


自分がやりたいと思っているように、


誰かがやっていた・やりたいと思っているし。








だから、



そういった「前例」を



うまい具合に探し出すことができれば、



それを真似したり、



完全にパクったりすればいいわけで、



自分で「答え」を探し求めることって、



案外すくない。








自分で考える力ってのは必要だけれども、



まず身につけなければいけないのは、



自分と同様に考えている人を見つけ出し、



そこから情報を得ることだったり、



類似した考えを盗んで、そっくりそのまま、



自分のアイデアにすることだったりする。









自分で考えなきゃいけなくなるのはその後だ。



自分がやろうとしていること、考えていることが



よほど特殊でない限り、



あるいは、



自身が先駆者でない限り、

(たとえ特殊であっても、他の事例を、

 うまい具合に自分の問題に応用したりできる)



アイデアを生み出すよりは、



アイデアを周りから取り入れるべきだ。






受験だってそうだからね。



自分と同じような境遇・レベル・性格の人なんて



ごまんといるワケだから、



オリジナルの勉強法を確立するのに時間を費やすなら、



同じような人の勉強法を真似る方が、



よっぽど効率的だ。






先人の知恵の財産ってのは

ほんとにありがたい。  
  • LINEで送る


2014年09月16日

「偽物」だけど、「本物」に違いない


「本物」の男になりたい…!

そう意気込むものの、ホンマモンが何か全くわかりません、

塾やってます、岡本です。







先日の鎌倉ひとり旅で、

鶴岡八幡宮に行ったと書いた。

その際、国宝が拝めると、そう記憶していたので

本宮にある宝物殿(ほうもつでん)に足を運んだ。



鎌倉時代の太刀が陳列されてあるのを見て、

当時の武人たちに思いを馳せ、

悠久の歴史に浸ってしみじみしていたところ、

ふと、紹介文を見ると


「〈複製〉」

との二文字が。




おいおいまじかよー、

ただの偽物じゃねぇかよ!

鎌倉時代もクソもねーじゃねぇか!と、

いかにもそれっぽくつくられた精巧な複製に

睨みをきかせながらも、

こりゃ偽物(複製)か本物かなんて、

紹介書きにかかれてなきゃ分かんねーや、と。





思うに、ほとんどの場合において、

それが本物か偽物かは、さして重要じゃないかもしんない。

実際、岡本はその精巧な偽物を見て感動したし

先人たちと少なからず触れ合えた(気がした)。




別に偽物を是とする気はさらさらないし、

できるなら本当に価値があるモノを手に入れたいし、

ホンモノを見つけられる審美眼は持ちたいと思う。

でも、ここで面白いのは

偽物を見たのに、あるいは偽物を所有していたとしても、

当の本人が、

本物を見たと、あるいは所有していると思ってれば、

それはある意味で「本物」なんだな、と。






「開運!なんでも鑑定団」というテレビ番組で

みんなこぞって、「お宝」をスタジオに持参し、

その道のプロ鑑定士に、

客観的な鑑定額を出してもらうのだが、

多くの「お宝」が

実は「お宝」と呼ばれるに値するような鑑定結果が出ずに

落ち込みながらスタジオをあとにするのだった。






自分の「お宝」が本物であるという証明が

どうしても欲しいという気持ちは非常に分かるが、

「お宝」が「ゴミクズ」に変わってしまうなら、

真偽なんて鑑定してもらわなきゃいいのに、と。

だって、

「ゴミクズ」になる前は、

れっきとした「お宝」だったわけで。

「ゴミクズ」を大事にしてるなんてバカだと

一笑に付されるかもしれないが、

大事なのはそこじゃない。






大事なのは、

自分は本物の「お宝」を持っているのだと、

そう思い込んでることだ。

その「お宝」を大切に大切にする気持ちに、

鼻高々と周りに自慢できる優越感に、

「お宝」を所有しているという誇らしさに、

果たして本物と偽物の間で、

それらの感情に差はあるのかと。いや、ない。





だったら、

自分が見たもの・所有するものが偽物だと気づくよりも、

偽物だと気づかずに、一生を終えたほうが、

ある意味で幸せなんじゃなかろうか。

周りの評価を意識することも大切だけれども、

自分にとって価値があれば、

それはそれで十分じゃなかろうか。

たとえそれが勘違いであっても、ね。









「ウソ」や「間違い」を信じることは愚かとされるが

嘘から出たまこと―ではないけれども、

それらを信じこむことで、

少なくとも精神のなかでは、

「ホント」や「正解」のときと同等のものが得られそうだ。
  
  • LINEで送る


2014年09月09日

できる人は「できない自分」を心得ている


塾やってます、岡本です。

それにしても錦織すごいですねー。

彼らの目に「戦局」はどう映ってるんだろう、

きっと勝つべくして勝ってるんでしょうね…。

今日はそんな話を。







野球の試合展開で、1-0。



サッカーの試合展開で、1-0。



バスケの試合展開で80-70。





きみが負けているチームのプレイヤーorファンだとする。


どのタイミングで「ヤバい」と感じるだろうか?


この「ヤバさ」は、


戦っている自チームや相手チームの強さだったり、


選手のコンディションやモチベーション、


試合会場の天候やコンディション等々、


もろもろの諸条件によって決まる。




それらの条件を的確に読み取り、


自分たちが置かれた状況がどの程度「ヤバい」のかの把握、


また、


その状況を打開するための「勝負に出る」タイミング。


できる人は、これらの判断が非常に早い。


逆に、できない人ってのは、非常に遅い。








その判断ができるから勝負事に勝つ、


だからできるわけだし


その判断ができないから勝負事に負ける、


だからできないわけだが、


この差は、いったいなぜ生まれるのか?


できる人は「先を見通す力がある」と


表現されることがよくある。


確かに、それも一理あるが、


できない人みんなが、


「先を見通す力がない」わけではないと思う。


先は見通せるけれども、


現状の客観的な分析が、甘いんじゃないか。


あるいは、分析の精度が低いように思う。

(それを「先を見通す力がない」と言うこともできるが…)







例えば。


きみの応援するサッカーチームが負けていたと。


その差1点差。残り時間は20分。


きみは状況を分析するわけだ。


確かにチームは負けている。


エースストライカーの調子が悪い。


チームの要がイエローカードを一枚もらっている。


しかし。


最近チームは勝ち続けているから、まだ問題ないだろう。


残り時間は20分とはいえ、


アディショナルタイムで4分ほど追加されるはずだ。


先ほどの攻撃は素晴らしかったから、


同じような攻撃がまだできるはずだ。


だからまだまだ勝負はついていない。


まだいける!


ってね。





この分析では、チームが負ける公算が大きいだろう。


なぜなら、


自チームの勝利を願うあまり、


客観的な分析ができず、


現状の分析というよりは、


自チームが勝つための理想的な試合展開を思い描き、


その通りになれば勝てるんじゃないかという


理想論を語ってしまっている。


良い部分だけにフォーカスして、


良くない部分には蓋をして、


見て見ぬふりをしているような状態だ。


これができない人の考え方じゃないだろうか。







一方、できる人間と言うのは、


悪い部分・できない部分もしっかりと見つめ、


客観的な分析をし、


理想論などではなく、今置かれている状況が


勝利やら成功やらから、どれくらい離れているかを


正確に見極めることができるのだ。


だから結果を出し、周りから「できる」と言われる。







これは何もスポーツだけの話ではなくて、


勉強や仕事のスケジューリング(計画だて)であったりと


タイムリミットのあるすべてのものに敷衍して


考えることができる。


計画通りになかなかいかない人は、


自分の「できる」部分だけに光をあてることなく、


「できない」自分のことも心得て


計画を立ててみてはいかがだろうか。  
  • LINEで送る


2014年09月02日

分からない、だから未来があるんでしょう。


塾やってます、岡本です。

人類の歴史は、ある意味では知識の堆積とも言えるかと。

今日はそんな話を。





分からないことが理解できた。



でも、ひとつ分かれば、また分からなくなって。



分かることが増えるとともに、



分からないことも増えていく…。



人の一生なんて、その繰り返し。



思えば、人類の歴史もそんなもんだ。



分からないことに挑み、


分かるようになった分だけ。


人類は進歩してきた。


そして、


いまだに分からないことがあるからこそ、


これからも世界は進歩していくことだろう。


どれだけ文明が進んでも。


ずっとずっと未来に生まれたとしても。


分からないことがない、そんな状況にであうことはないだろう。





そういう意味で、


人生ってのは、


分からないことを分かるようにしていく営みだと、


そう言うこともできるのではなかろうか。


学ぶということはつまり、


分からないことを理解できるようになるために


学ぶということであり、


そういう意味で、


教科書の知識を学び、それを吸収することが


深い意味での学びではないわけだ。


教科書の知識を学び、それを吸収することは、


分からないことを解決するための手段でしかない。




成長すればするほど、


世の中の分からぬことは増えていくばかり…。


分からないということを、


悲観する必要なんて、これっぽっちもないと思うが?


だって、


世の中なんて、分からないことだらけなんだから。


分かんないのがフツーだよ。


大事なのは「分からない」のその後だ。








三才 私に過去はなかった


五才 私の過去は昨日まで


七才 私の過去はちょんまげまで


十一才 私の過去は恐竜まで


十四才 私の過去は教科書どおり


十六才 私は過去の無限をこわごわみつめ


十八才 私は時の何かを知らない


(谷川俊太郎 『生長』)





生長すると余計に見えなくなるものもあるんです、

でも、それでいいんじゃないですか?

見えなくなれば、また学べばいい。  
  • LINEで送る


2014年08月26日

引き受けたものにぐちぐち言うもんじゃありませんよ。


塾やってます、岡本です。

岡本はどうも気が弱いようで、頼まれたことはなかなか断れません…。

今日はそんな話をば。






人が苦しんでいるから。


人が困っているから。


人が泣いているから。


人にお願いされたから。


人がかわいそうだから。





理由はどうあれ、人を助けるのはいいさ。


そんな人、ほっとけない!って気持ちは大事にしたらいい。


ただね。







そのあと、後悔してない?


うわーやっぱ引き受けるんじゃなかったとか、


うわーやっぱ自分がやっときゃよかったとか、


うわーやっぱ相談に乗るんじゃなかったとか。


それでなんかふてくされたりとか、


不機嫌になったりとか、


テンション下がったりとか。


それっておかしくない?





自分が助けるって一度でも決めたんなら、


たとえそれでどんな結果になったとしても、


後悔しちゃいけないでしょ?


自分で決めたんなら、腹、くくんないと。





できない約束なんて、最初から結ばなきゃいい。


イヤな思いになってしまうことなんて


最初から引き受けなきゃいい。




先も見えずに目先の情に動かされたことを


優しさとは言わないよ。  
  • LINEで送る


2014年08月19日

恐ろしきかな、分からないこと・知らないことのない世界

ご無沙汰しております、塾やってます、岡本です。

骨折していたものでなかなか更新できず大変失礼しました。
(といっても、足なのでブログの更新が滞っていた言い訳にはなりません。管理人様をはじめ皆さんにご迷惑をおかけしました。)



よー分からん目新しいものがポンポン出て、実にややこしい複雑な世の中でありますが、

さて今日は、いくつ分からないことや知らないことがあって、そのうちのいくつを解決できたでしょうか?

…思い返そうとしても、なかなか難しくないですかね?

今日はそんなお話を。






あなたは今日一日を過ごして、


いくつの分からないことや知らないことと出会っただろう?


あるいは。


いくつの分からないことや知らないことを


分かるようになったり知ることができたんだろう?








もし、


分からないことや知らないことが1つもなかったら、


もしくは


分かったことや初めて知ったことが1つもなかったら、


それは注意しなければいけない。







あなたの成長は、


その場で止まっているかもしれない。






確かに。人は無意識のうちにも成長できる。


語弊はあるが、


赤ん坊なんて、いわば無意識化で成長するようなもんだ。


ところが。


この無意識下での成長というものは


加齢とともに失われる。






それが「習慣」と呼ばれるもののせいなのか


「吸収力の低下」なのか。


原因は定かではないが、


年齢を重ねるごとに、


無意識下での成長が衰えていくのはまず間違いないだろう。







なにも学ぶことのない日々に、


成長の余地はない。




成長のない日々に、


「可能性」はない。




「可能性」のない日々に、


夢や希望はない。



残酷な表現ではあるけれども、これは事実だ。






分からないこと・知らないことは。


決してネガティブなもんじゃない。


それらが生じる場所は、


「今」の自分から、


抜け出すための好機なのだから。


「今」の自分が、


成長するためのきっかけなのだから。




脳が発する「?」に気づいてほしい。


  
  • LINEで送る


2014年07月08日

コツコツやれる人間のほうが実は根性がないかもしれない


塾やってます、岡本です。

更新が滞り気味で申し訳ございません。

もう7月―…。もう夏休み。


いやぁ早い。





学生の夏休みといえば、学校からご丁寧にもらう


大量の課題(宿題)。


多い学校は、ほんとに多い。笑


ちょっとかわいそうになるくらい多いからねー。


まぁその分、自分の血となり肉となるってことで、


頑張ろうなと言いたい。






さて、この夏休みの課題だが、


コツコツ計画通りやれる、


その名も「コツコツタイプ」と、


夏休みラスト一週間くらいから


スーパースロースタートをきる


「面倒なことは後回しタイプ」に、


きれいに分かれる。






後者の人間、すなわち


「面倒なことは後回しタイプ」の人は、


前者の人間、すなわち


「コツコツタイプ」の人間を、


羨望の眼差しで見つめるわけだ。



「あいつ、ほんとすげーよなぁ…

 やるって決めた時の意志がすごい。

 根性あるよなー。。

 何で自分はこんな面倒くさがりなんだろ…

 意志弱すぎなんだよねー…根性ねーわ!笑」


ってなことを考えながらね。





でも、ひょっとしたら、


実は「コツコツタイプ」の人間の方が


根性がないと、そう言うこともできるんじゃないか。


もちろん、


「コツコツタイプ」をバカにしてるわけじゃない。


「面倒なことは後回しタイプ」よりも確実に


成果を上げるし、スマートだ。


では、どういうことか。


つまり、こういうことだ。







「コツコツタイプ」には、


残り一週間で、課題を終わらせる根性がない。


というか、


その一週間が潰れることがものすごーく嫌なわけだ。


そんなぶっつづけで、宿題オンリーの生活なんか


面倒くさすぎて、無理なのだ。


だからどうするか。


そう、コツコツやるわけだ。


ラスト一週間で課題をやるよりも、


一日少しずつこなした方が、


必要な(?)根性が少なく(?)て済む。


少ない日数でやろうと思ったら、根性いるもんねー。


そういう意味で、


コツコツやる人間は、


根性がないのかもしれない、


そう考えたわけだ。








もちろん、これは一面的な見方ではある。


ただ言えるのは、


「面倒なことは後回しタイプ」の諸君、


一週間で課題を終わらす根性があるのなら、


諸君らは絶対に、


コツコツやるための根性を有しているはずだ、とね。





「面倒くさがりだからコツコツできない」


ってのは間違いだ、


というか、言い訳にすぎない。
  
  • LINEで送る


2014年06月10日

「お褒めの言葉」は鵜呑みにすればいい

塾やってます、岡本です。

最近の生徒に際立って多いんですが、

どうもみんな褒められベタなんです。

自信をつける絶好の機会なのになーと思いながら、

今日はそんな話をば。





「やるねー」

「すごいねー」

「かわいいねー」

「男前だね―」

「かしこいねー」

「できるねー」




まぁなんでもいい。


人からお褒めの言葉を頂いたら、


まず間違いなく


「いやいや」って否定してみたり、


「何か裏があるな?」と相手を詮索してみたり。


うん。気にする気持ちも分かるけどさ。





あんま余計なこと考えなくて、いいんじゃん?


皮肉であろうがなんであろうが、


褒めてくれたんでしょ?


だったら素直に喜べばいい。アホみたいに。


明らかな皮肉は別としても、


社交辞令であろうがなんであろうが、


褒められたことは事実なわけで。




せっかく褒めてくれてんだから、


気持よくなんないと。


「気遣って言ってくれてんのねー。あー…もっと頑張らないとな―」とか。


逆にテンション下がってどうすんの。


「まじっすか!あざーっす!」でいい。


そっちの方が、


自分の成長の糧になるし、


人生楽しくなるよー。




うん。都合よく生きることにしようぜ。



  
  • LINEで送る


2014年06月03日

自分の幸せのカタチを、他人に流されてどうする?


塾やってます、岡本です。

今を生きる人は、情報過多の世を往くので、どうも

他人の幸せのカタチに、少々流されすぎじゃないか?と思うことがあります。

今日はそんな話を。



他人の望む幸せと、自分が望む幸せが一緒なはずがない。



それはまったく違うはずなのに、



悪い意味で他人に影響され、感化され。



そして自分の幸せのカタチを、見失う。





他人の幸せのカタチを自ら望んでお手本としたり、


真似したり、取り入れたりするのはいい。


でも、


他人の幸せの方が壮大だからとか、


一見カッコ良さそうだとか、


道徳的だとか。


そんなうわべの理由から


自分の想いを曲げる(曲がってしまう)必要はない。






小さかろうが大きかろうが、


利己的であろうが他己的であろうが、


カッコ良かろうが悪かろうが、


自分が「快」と感じる方向へ、


自分が幸せだとおもうものカタチづくればいい。





ぼくらは、いつかかならず死ぬ。


この世に「勝者」がいるとするなら、


それは死ぬ直前に


「なんとも幸せな、ええ人生やったな」と


笑いながら言える者なんじゃなかろうか。
  
  • LINEで送る


2014年05月20日

それは悩んでるんじゃなくて、立ち止まってるだけ


塾やってます、岡本です。

みんな何やかんやで悩んでますけど、

断言しますが、ほとんどは悩む必要のない悩みです。

今日はそんな話を。





進むべきか、引くべきか。


変えるべきか、そのままにすべきか。


やるかやらないか、右か左か。





それが大きな決断であればあるほど、


人はその決断に悩む時間を必要とする。


そりゃ大事なことだからねー。


じっくり慎重に決めたほうがいい。


後戻りなんて、なかなかできないから。





ところがどうして、


多くの人は悩んでいるようで悩んでいない。


当の本人は、それはもう悲壮感を漂わせ、


あたかも重大な決断に迫られてますって


そんな表情をして悩んでる、が、しかし。


それは悩んでいると思いこんでいるだけ。


ほとんどの場合のそれは立ち止まっているだけだ。


ぼーっとしているのと何ら変わりない。





多くの人の悩みには、思考が伴っていない。


AにしようかBにしようかで迷っているとき、


まさに「Aにしようか、Bにしようか」と


その結論部分だけで決断しようとして


あたかも悩んだつもりでいる。


Aを選択した際の


短期的・中長期的なメリット・デメリットは何なのか。


Bを選択した際の


短期的・中長期的なメリット・デメリットは何なのか。


それらを考慮に入れずに、あるいは、何も調べずに


ただ、「AかBか」の選択に振り回されている。


そんな状態で悩んでも、ムダ。


悩む必要なんかまったくない。





悩むってのは、


判断材料を一通り調べ尽くして、


メリット・デメリットを洗い出して、


そのうえでも


単純には選択できない「何か」があるときに


思考を巡らすことを言うんだ。





悩んでますって?


いやいや、もっと調べてから言えよと。


ムダに悩んでるから、疲れるんだよ。  
  • LINEで送る


2014年05月13日

手を抜くことによる弊害~人間はそんなに器用じゃない~


塾やってます、岡本です。

何やかんやと理由をつけて、

テキトーにやってしまうことってありますよね。

今日はそんな話をば。








本気でやるのカッコ悪いとか、


他のことで忙しいとか。


何らかの理由(言い訳)から、


テストで手を抜いたと。





結果、テストの点が悪かったと。


テストで点が取れなかったのもマズいだろうが、


それよりもマズいのは、


「手を抜く」体質になってしまうことだ。





人はそんなに器用じゃない。


メリハリをきちんとつけられる動物でもない。


何かイヤなことがあったら、


それがズルズルと尾を引いて


やることなすこと全てのやる気がなくなるように、


手を抜く習慣ができてしまえば、


1つのことだけでなく、


やることなすこと全てに、手を抜き出す。







ひとたび手を抜く習慣が身につくと、


毎度の結果が芳しくないだけでなく


さらに恐ろしい事態になる。


能力の「退化」だ。


100%のうち、


毎回80%の力で臨んでいるとどうなるか。


その80%が、自分の限界値になる。





野球の例が多くて申し訳ないが、


きみがバッティングセンターで、


本気を出せば100km/hの球が打てると。


でもきみは、本気を出すのが面倒くさいから、


あるいは、


友達に空振りしているところを見られたくないから


そういう理由(言い訳)で、毎回80km/hの球を


打ち続けると。


するとどうだろう、


今まで余裕だった80km/hの球が、


だんだん打ちにくくなってくるはずだ。


そのとき、手を抜くことに慣れたきみはどうするか。


時速64km(80km/hの80%)の球を打ち出す。


間違いなく。


このように、


「手抜き」の連鎖が、


自分の能力をどんどんどんどん下げていく。


きみが気づかぬうちに。


その結果、何が決まると思う?




人生だよ。きみの。


きみは「そこまでの」人だったということになる。


そして大人になったきみは若い衆に言うわけだ。


「いやぁ、昔はすごかったんだけどねー」


なんてね。





手を抜くことは確かにラクだ。疲れないしね。


でもきみは気づくべきだ。


全力でやったときの楽しさにも。


全力を出さなければ見えない世界というものがある。


ぜひともその景色を、きみたちには見てほしい。
  
  • LINEで送る


2014年05月06日

ひとが「高級」に憧れる理由

今も続いているか分かんないけど、


昔「芸能界格付けチェック」という番組があった。


各テーマごとに、


高級なものと市販のものが用意され、


そのどちらが高級なものかを目利きする番組。


食べ物(肉)では、


松阪牛のA5ランクと市販の安い牛肉の食べ比べ


飲み物(ワイン)では


シャトー・ラトゥールと格安ワインの飲み比べ


音楽(バイオリン)では


数十億する名器と普通のバイオリンの聴き比べ


などなど…


芸能人がアレコレ言いながら


高級な方を当てたり外したりしていく。





いかにもセレブが、


えらそうに調子乗って選んだものが


実は格安ものだった…


そんなシーンがこの番組の笑いどころでもあるわけだけど、


それが示すのは、


高級品と廉価品とのあいだには


ほとんど差がない、あるいは、


それらの違いを認識できる人間は


圧倒的に少ないってことだ。






それにもかかわらず、


多くの人が「高級」を追い求める。


人は高級な商品を購入するわけではなく、


高級な商品を手に入れて(身につけて)得られる


優越感を購入している、とはよく言われるが


まさにそのとおりだと思う。






高級腕時計や高級ブランドを身につけ、


高級車でドライブし、


高級レストランで食事をする…


果たしてそんな高級ライフを手に入れた人


あるいは、手に入れることを願う人に


そららが高級である所以を理解している人が


何人いるのか、はなはだ疑問である。


(あっ、ひがみじゃないですよ笑)





ではなぜ、そんな得体の知れぬ「高級」を


ひとは追い求めるんだろうか。


岡本が思うに、それは、


多くの人に「こだわり」がないからだろう。


自分がどんな価値基準を持ち、何を大事にして、


どう生きていくかという、自分のなかの「軸」が


ないからなんじゃないだろうか。





高級かそうでないかってのは、


あくまでも一般的な価値基準で決められるのであって、


その「高級」が自分に高級なものかなんて


ほんとうは分からない。


「こだわり」を持つ人は、


そのことをよく理解している。


自分にとって何が価値あるものかを承知しているから、


不特定多数の「高級」には流されずに


何が自分にとって高級なものか判断することができる。


(それがたまたま、一般的な高級とカブることはあるが。)


逆に「こだわり」のないひとは


自分の価値基準がないから、


何を選択すればいいかが分からない。


だから、とりあえず「高級な(だと言われる)」ものを


手に入れようとするんじゃないだろうか?





自分にとって何が上質で、高級なのか。


立ち止まって考えてみる価値はありそうだ。


すべてをなげうって、多くのものを犠牲にし、


汗水たらして世俗的な「高級」を追い求め、


ついに「高級」ライフを手に入れたときに、


「…あれ?


 この『高級』の何がいいんだろう?」


そんなことにならないように。


自分の「こだわり」、しっかり見つけましょ。  
  • LINEで送る


2014年04月29日

「あの人の言うことはいつも正しい」という幻想

塾やってます、岡本です。

うさんくさい顔をしているので、どうも話を信じてもらえないフシがあります…。

今日はそんな話を。






「あの人の言うことはいつも正しい」


そんなことはまあ滅多にないわけで。


ただ、実際に、そう思わせるような人間がいるわけで。


逆に、


いいこと言ってるのに無視されたり、


正論を言ってるのに疑われたりする人がいるわけで。




誰よりも素晴らしいアイデアを提案しているのに、


「若い」という理由だけで却下されたり。


「医学博士」という肩書きを見た途端、


その人の発言が妙にもっともに聞こえたり。


世間を見渡す限り、


話の「内容」だけで、


正誤や優劣を判断できる人間は極端に少ない。


多くの人がその「内容」でなく、


その背後に潜む人間性を見ているわけだ。


この人は、人間として信用するに足る人物かどうかをね。







話自体に重きをおかれない世には閉口するが、


そういう世の中であるかぎり、


相手に自分の発言の正当性を訴えるには


周囲からの信頼を得なければならない。


矛盾するようではあるが、


「あの人の言うことはいつも正しい」と


周りから思われなければいけない。  
  • LINEで送る


2014年04月22日

日曜日も頑張らなければいけないんですか?


塾やってます、岡本です。


生徒からこんな質問をされることがあります。


「私…日曜勉強しなきゃですか?」


って。




本人、どうやら「やらなきゃ」って思う気持ちはあるようで、


金曜の夜には、


「土曜日はこれとこれを、日曜はこれをやって…」と


休日の勉強に向けて、モチベーションが高まるそうだが、


いざ土曜日になると、不思議なほど勉強できないそうだ。





相談してくれた子にかぎらず、


特に大学受験生にこのような症状の人は


多いんじゃないだろうか?


いや、ややもすれば、大人だって、


「日曜も働いた方が、いいのかな…?」って


立身出世のために、あるいは売上増のためにそう思っているのかもしれない。


やらなきゃいけないのは分かってる。


十分すぎるほど理解している、理解しているはずなのに、


いざ勉強しようにもまったくはかどらない。


そういう子に限って、


「いっそのこと、休日は勉強やめちゃえ!」という


開き直りができないように思う。


息抜きしていても、


「受験生なのに、やることいっぱいあるのに、


 たくさん予定を立てたのに、何もしないなんて…


 ヤバい…こんなんじゃ、受験失敗しちゃう…!」


ってな具合に、息抜きが息抜きにならず、


どんどんと自分の首を絞めてしまう。






こうなってしまうと、


もう、そりゃ、ほんと、ツライ笑


肉体的・精神的な徒労感にさいなまれ、


ついには調子の良かった平日にまで


悪影響を及ぼし始める。






確かに、土日をオフにするのは、


受験生にとってかなりキツイ。


でも、


勉強する気になれない今の自身の状態を


無視できないことも事実。


これはもう、


スモールステップをふんで、


少しずつ休日に勉強できるような状態に


持っていくよりしかたない。







その際、大事なのは、


今、まったく勉強できないでいる自分を


受け入れなくてはならない。


リハビリとして、


最初は、(個人差はあるが)1時間程度で終わるような


ごくごく簡単なノルマ設定からスタートすべきなのに、


どうも今の現状を認められないでいる子が多くて、


「ほんとはもっとできるのに」とか、


「1時間しか勉強しない自分って…」なんてな具合に、


今の自分を卑下したり、現状から目を背けてしまう。


そんな状態じゃ、いつまで経っても現状から抜け出せない。






「自分には今、休日に勉強できる力はないのだ」と


開き直って、


ノルマを低く設定し、


そのノルマを達成した自分を


(はじめは形式的にでもいいから)褒めて、評価する。


その繰り返しが、


自分の自信を深め、調子を上向きにする方法だ。


余計なことを考えすぎず、前向きにやっていこう。


時間は有り余ってるわけではないけれど、


もう間に合わないってレベルでもない。


着実にいこうな。
  
  • LINEで送る


2014年04月15日

蟻が潰されたという1つの結果に対する複数の原因



塾やってます、岡本です。

しばらくアップせずに大変失礼しました…。

ブログを書かなかった原因は、いったいどこにあるんだろう?

今日はそんなお話。




あるところに、リンゴの木がありました。


そのリンゴの木の脇を、一匹の蟻が


エサを探しながら横切ろうとしていました。


そのときでした。


枝もたわわに実ったリンゴが1つ、


その重みで落下、


運悪く、蟻が、落ちたリンゴによって


潰されてしまいました。







「蟻が潰された」のが結果だとして、


その原因は?








多くの人が、


「リンゴが落ちたから」と答えるだろう。


なぜか。


そう考えるのが一番分かりやすいからだ。


でも、ややひねくれてはいるけれども、


「0.1秒前に蟻の10cm上空にリンゴがあったから」


と答えることもできるし、


はたまた、


「ハチがその位置にリンゴが実るよう受粉させたから」


あるいは、


「10年前にオジサンが、リンゴの木をそこに植えたから」


そう言うこともできるわけだ。







何が言いたいか。






原因はその人の捉え方によってまったく違うってことだ。


つまりは、


「結果」に対して、


その「原因」を


いくらでも相手におくこともできるし、


いくらでも自分に帰着させることもできる。






特に、「良くない結果」に対して


その「原因(責任)」を


相手のせいにするか


自分のせいにするかで


成長の速度に、決定的な違いが生まれる。







テストの点数が悪かった。


原因はなんだろう?


「先生の指導力がクソだったから」?


「前日、寝不足だったから」?


「テスト勉強が足りなかったから」?


「自分がこの世に生まれてきたから」?








原因をどこに見出すかは、きみ次第。


その捉え方次第で、


どこまでも成長できるんだから。
  
  • LINEで送る


2014年02月25日

心のゴミを捨てれば、世の中、大抵のもんは面白いはずだぜ。


塾やってます、岡本です。

何やらかんやら、色んなものを心に背負ってる皆さんに。







諸事情で引越しすることになった。


それに伴い、部屋の掃除をしているんだが、


これがまた、


いらんもんしかない。笑


ワイルドにほとんど捨てたったぜー。


そういや少し前に「断捨離」ってのが流行ったなーと。


ものへの執着とか、欲深いことってのは


個人的には賛成なわけで。


ただ、


精神のうちに、余計なもの

(心のゴミとでも呼ぶことにしよう)


を背負ってるのはいかがなもんかと。









心のゴミってのは、たいてい周りから頂く。


周りからのプレッシャー。


周りからの非難。


一般的な生き方。


一般的な価値観。


そういった心のゴミを、


いつの間にか心に溜め込んで、


挙げ句の果てには


自分の価値観を見失い、


自分の向かうべき方向を見失い、


よく分からぬ義務感とやらに操られ


自分を失うという結果を招く。









勉強への取り組みについても、


似たようなことが言えるかもしれない。


大学生になってから、


高校内容を学び直す機会があると、


大抵の人が


その内容の面白みに気づくという。


岡本自身もそうだった。


数学も国語も社会も。


どうして受験生の頃に、


それらの面白みに気づかなかったのかと


そう感じたものだ。


勉学に対する見方が成熟されたとも言えるが、


それ以上に、


余計なものを背負わず、


純粋な気持ちで学びと向き合えるようになったことが


大きかったんじゃないだろうか。








周りからの過度な期待、


受験へのプレッシャー、


自身の成長への不安…。


色んなもんを背負って向き合う受験ってのは


本当に苦しい戦いであり、


学びの本当の意味を見失う格好の舞台でもある。










掃除でも勉強でも仕事でもなんでも。


余計なもんを背負わずに、


余計な考えを遮断して、


真っ直ぐな姿勢で、


素直な気持ちで、


やることなすことと、


純粋に向き合ってみてはどうだろうか?






歪んだ形で向き合わない限り、


世の中、面白くないことの方が少ない。


色んなもんを捨てて、


そのものがもつ面白みを


今一度、見出してみようじゃないか。


自分が面白ければ、


それでいいんじゃないかな。
  
  • LINEで送る


2014年02月04日

外由来の価値観をどれだけ我慢して聞き入れることができるか

塾やってます、岡本。

価値観ってのは知らず知らずのうちに形作られ、

価値観の相違から人はぶつかり合うことも多いですよね。

今日はそんな話をば。



自分の価値観ってものが、


いつの間にか自分のなかに形成されている。


その価値観にそぐわぬ価値観を、


どこまで冷静に聞き入れることができるだろう?


「要は人の話を聞くってことでしょ?

 そんなの簡単じゃん!冷静に聞くなんてへっちゃらさ。」


それは受け入れがたい価値観というものを


正確に分かっていない証拠だ。










きみは今、受験を間近に控えた高校生(だとする)。


きみにはガール(ボーイ)フレンドがいる。


きみはその子を愛してやまない。


彼(女)と一緒なら、受験だって頑張れる!


そう思った矢先、


「今、恋愛するのはやめなさい。」との声がかかる。


しかもそう言うのは、


日頃から尊敬し、憧れの存在であるきみの先輩。


きみはその先輩からの助言に対して、


首を横に振ったことがない。


さて。


きみは先輩の言うことに耳を傾けることができるだろうか?


果たして冷静に、正しい答えを導くことができるだろうか?





…受け入れがたい価値観ってのは、


この例で言う先輩の考えだ。


どうだい?なかなかヘビーなもんでしょ?


素直に「ハイ、そうします」と言えるだろうか?










自分のなかで「絶対」だと思うことが、


必ずしもきみにとっての「正解」とは限らない。


今きみが信じきっていることが、


実は「間違い」なのかもしれない。


自分の信念を貫き通すのは大事だが、


ただの意固地になってはいないか。







何も他人の価値観に沿って生きろとは言ってない。


ただ、


苦痛を伴いながら、受け入れがたい価値観と


ぶつかり合うことができてはじめて、


深みのある、より「正解」に近い「答え」を、


導き出せるんじゃないだろうか。
  
  • LINEで送る


2014年01月28日

周りからの注意や非難に耐えられない…そんな人へ


塾やってます、岡本です。

周りからの横やりがやって、途中でやる気がなくなることってよく有りますよね。

今日はそんな話をば。








人の内面は、他人には見えません。


ホントの気持ちなんて、他人には分かりません。





他人があなたを、どんな人間か判断しているのは、


結局のところ、あなたの行動や言葉や表情など、


他人にも「見える」部分、


もっと言えば、表層でしかあなたを判断できない。




例えば。


あなたが「やる気の出る本」を読んで、


実際にやる気が出たとしましょう。


今までサボっていたけど、


これから自分は、


頑張って何にでもチャレンジするのだと。


これは内面の、非常に大きな変化です。


本を読むことで、あなたの何かが変わったわけだから。





では、


その啓蒙本を読む前と、読んだ後。


あなたの「表層」に変化はあったか。


確かに、


「目の輝きが違う」とか


「生気に満ちてる」とか、


表情にまで


即時に変化が生まれることもあるけれど、


大抵の場合、他人目には変化など見えません。


あなたの内面なんて、分かりっこないのだから。








うわべしか見えない他人が、


あなたの変化に気づくのはいつか。


それは当然、


あなたの言葉や行動、表情など、


目に見える形で表れたあと。


(見る目のない人がそれに気づくのはもっとあと…。)







あなたのことを否定する人間に対して、


あなたは反発したり、落ち込んだりするかもしれない。



「勉強しなさい」


「あなたは本当にダメダメね」


「何も成長してないよ」


「言動が子供っぽいまま」


「自分のことは自分でやりなさい」


「いつまで甘えているの?」


「だらしない生活ばかりして…」


「ちゃんと将来のこと考えて行動しなさい」









あなたが変わろう、成長しよう、


そう考えているときは特に、


周りからの心ない発言は


非常に堪えるのは十分に理解できます。








でもね、


冷静になって考えてみよう。


あなたがこれから、


頑張ろうとしていようがいまいが、


周りにはそんなこと分かるはずがありません。








相手が分かっていることと言えば、


あなたが今までどう生きていたか、


生きてきたなかで、どんな結果を出してきたのか。


あなたについて分かっているのはそれだけ。


それだけなんだから、


あなたが今まで、はた目から見て


好ましくない生活を送っていたとしたら、


周りがあなたに注意したくなるのも


致し方ないんじゃないでしょうか?








それはそれで、


受け入れるしかありません。


周りからそのように評価されたのは、


あなたが「そう評価されるように」生きてきたから。


全部が全部、あなたが悪いと言う気はありません。


でも、あなたにも責任はある。


正確に言えば、過去のあなたにね。









そして受け入れると同時に、


そのような発言は気にしなくてもいいでしょう。


だって、


あなたはこれから、


変わろうとするんでしょ?


成長しようとするんでしょ?


だったら、


そんな発言、まったく気にする必要はありません。


周りがあなたの変化に気づくのは、


それが表にあらわれ出す、


もう少し時間が経ってからだから。









あるいは、


周りからの発言を受けて爆発しそうな感情を


ぐっとこらえて、


あなたが成長するための原動力にすればいい。


今に見てろよと。


しばらくして気づくであろう圧倒的な変化に


驚くがよいと。







くれぐれも、


心ない発言に


感情を爆発させたり、


すねたり、


落ち込んだりしないように。


なぜなら、怒りや落胆は、


せっかくの次への原動力を


浪費してしまうことになるから。








周りからの注意ってのは、


相手の不満から過剰にひどく表現されたり


核心をつく内容であったりと。


とにかくこたえるよね…。


あなたのその気持ちは非常に分かります。


でもね、


相手がそこまで不満を爆発させて、


不満を言うってことは逆に、


あなたへの期待が大きいってことだ。


相手がズバズバと、


核心をついてくるってことは逆に、


あなたをしっかり見てくれてるってことだ。





周りからの注意や非難に、


感謝すらできるようになれば、


あなたはもはや、


自分を高める術を心得ている。


そんなカッコ良い人間、一緒に目指そう。





最初はできなくていい。


うまく気持ちを整理できないほど、


落ち込んだり、怒ったりしても仕方ない。


少しずつ、前向きな気持ちになれるよう、


少しずつでいいから頑張っていこう。


そう、あなたはひとりじゃない。  
  • LINEで送る


2014年01月21日

相手を信じきることで、相手が応える

塾やってます、岡本です。

センター試験が終わり、私立高校入試が終わり…

いよいよ子どもたちの「戦争」も最終局面を迎えました。


最後の最後は、子どもたちのことを信じきること…。

僕らにできることはそんくらいかもしれません。







あなたは人を信じることができるだろうか?


信じきる。


1回や2回、信じてみようってのとはわけが違うよ?


たとえ相手が期待に沿わないようなことをしても


たとえ相手が裏切るような言動をとっても


信じきることができるだろうか?




返報性の原理というものがある。


簡単に言えば、


一度受けた恩は返さないではいられなくなる、


そんな感じ。





例えば、


食品売り場で売り子のおばちゃんが


美味しそうなソーセージを試食させてくれたとする。


そのあとで、「おひとつどうですか?」なんて言われると


気まずい空気になったことはないだろうか?


その気まずい空気ってのを分析すると、


「おばちゃん良くしてくれたし、断りづれーなぁ」


そんな気持ちになってるはず。


そう、それが返報性の原理だ。





返報性の原理が応用可能なのは


何もビジネスの世界に限ったわけではなく


相手の成長を考えるうえでも非常に有効だと思う。






どれだけ失敗しても、何回挫折しても。


周りから愛想をつかされても。


たった一人でいいから。


「おまえはできるやつだって、俺は信じてるから。」


そう笑顔で言ってくれる人がいる。


そう言われた当人にとって、


自分を信じてもらえる存在がいるという事実が


どれほど心強く、ありがたいことか。



そして、その人の期待を裏切らないように、


その人の期待に応えようとする気持ちが


どれだけ強く溢れてくることか。




その気持ちが、成長への糧となる。







どうかあなたの大切な人を、信じてあげてほしい。


何回ヘマしたって、信じきってあげてほしい。


あなたが信じきることで、


あなたの大切な人は、





成長できるんだから。  
  • LINEで送る


2014年01月14日

「目に見えない」成長を自覚させること

塾やってます、岡本です。

やっぱりいくつになっても、周りから褒められるって嬉しいですよね。

それが予想だにしていない場合には、なおさら嬉しいんじゃないでしょうか。






成長したかどうか。



一番ハッキリ自覚できるのは



言うまでもなく結果。



順位が上がったり、成績が良かったり。



目に見えて分かる結果は



褒めるまでもなく



当の本人は成長(結果だけかもしれんが)を自覚し、



喜ぶことができる。








でも、それはいわば氷山の一角であって、



子どもたちは本人の自覚せぬところ、



つまりは「目に見えない」部分でも



たくさん成長している。



結果(テスト等)での評価だけでは、



評価までのスパンが長すぎて、



モチベーションが維持できなかったり



自分に自信が持てなかったりすることもある。






そうならないためにも、



周りがその「目に見えない」成長を自覚させてあげる



それが大事になる。



「前までは10分も続かなかったのに…

 すごいね、だいぶ集中力がついたね。」


「前とは取り組む姿勢が全然変わったよ。

 空欄がひとつもなくなったじゃん!」


「字を丁寧に書くの意識するようになってから

 ずいぶんきれいなノートを作れるようになったね。」


「その考え方は、今まではできなかったぞ?やるじゃん!」




そんな風に、



今の努力が実を結んでること、



今の頑張りが成長につながっていることを



どしどし自覚させてあげてほしい。



点数にはなかなか表れない部分を



評価してあげるのも有効。  
  • LINEで送る